超豪華寝台列車
みちくさ vol.43 No.3 (2017)
JR東日本が凄い寝台列車を走らせはじめた。「トランスイート四季島」という。クラスや旅程にもよるが、最低の一泊二日でも一人三二万、三泊四日になると九五万円。車内での食事以外の、いろいろなイベントや外泊なども含めて、とはいえ、結構な値段である。
それを追いかけるように、JR西日本はこの六月から「トワイライトエクスプレス瑞風(みずかぜ)」という、やはり豪華な寝台列車を走らせるのだそうだ。こちらの方は「四季島」よりもさらに高額になる価格帯もあるらしい。
こんな列車に誰が乗るのかねぇ、と思っていたら、JR九州の「ななつ星」同様、もうかなり先まで予約でいっぱいだそうである。瑞風の平均競争率は5・5倍。どうも定年後シニア世代親爺の、奥さんに対する「日頃の罪滅ぼし」か「新婚旅行」を狙っているようにしか見えない。
その「四季島」が北海道にやってくる、というニュースがあった。しかも目的地には「登別」が含まれているという。
「あれっ?」と思った。
写真ではパンタグラフが確認できるから、「ななつ星」のような客車を機関車で牽引するタイプではなく、これは「電車」に違いない。しかし道内走行予定の区間のうち、新函館北斗から東室蘭までは非電化であるので、「この間はどうするのかなぁ、昔のようにディーゼル機関車ででも引っ張るのかしら、それも面白そう」とも思った。
調べてみると、要は「ハイブリッド型」。ただ、ディーゼル発電機で発電してモーターを回す、という方式の車両は、これまでも「五能線」の「リゾートしらかみ」用などに使われていたのだが、「四季島」の場合、非電化区間ではこれを用い、電化区間は普通の電車として走行するのだそうだ。これで電化・非電化の両方の区間で走行可能となるのである。「瑞風」も同様の方式らしい。
ただし国内狭軌JR線内の電化区間では、電気の「質」が四種類に分類される―これ、鉄道検定問題になりそうですな―ので、そのすべての条件への対応のための技術にもずいぶん工夫が施されているとのことである。
JR西日本では「気軽に楽しめる長距離列車を検討したい」との発言もあるようだ。こちらの方なら検討に値するが。
(徒然亭)
中古アナログ・レア盤
みちくさ vol.43 No.2 (2017)
アナログ盤、復活の兆し。
確かに、中古ではない新譜、それもごく最近の録音をLPレコードにしたものの発売が増えている。お値段はいろいろであるが、無論、同時に発売されているCDよりもかなり高価である。
中古の方は、といえば上京した折、都内のショップを、とくに買おうとして行くわけではなく、興味半分に覗くことが、時々ある。そして、いわゆるレア盤(僅少盤、珍盤―といっても定義がよく判らないのだが)になると、一桁違うのではないか、と思うくらい高い値札が付いているものに、時々出くわす。
筆者がもう三十年も前に購入し、今も手元にある2枚組のものは税抜き一万二千円。もっとも、これは「名盤」に属するものであるからであって、通常では盤や装丁の状態によるが、平均一枚千円か、それより若干高いようだ。
レコード棚の中には、レア盤らしきものが何枚かある。その一つがホフナング音楽祭、一九五六、五九、六一年のライブ収録、英国EMI盤の三枚、いわゆる冗談音楽の走りである。
中に「オペラを偽造しよう(レッツ・フェイク・アン・オペラ)」というのがあって、「カルメン」と「ニュルンベルクの名歌手」の序曲をくっつけた「序曲」に始まり、古今の有名オペラなどのフレーズが眩暈するほどたくさん出てくる、という代物である。これなど、クラシック音楽にあまり触れたことのない人には、聴衆が何故笑っているか解らないところも結構あるのだろうと思う。
この音楽祭、この後も時々開催されているのだそうで、一九八八、九二年の盤(前者はCD、後者はDVD)もでている。あと、米国でPDQバッハ、国内では山本直純のパロディーコンサートなどもある。以上のものもかなり購入した。
さて、中古LPはどのくらいの価格で買い取って頂けるのかしら、と調べてみた。すると、高くとも売値の十パーセントくらい、つまり一枚百円以下が通常だそうだ。となると所有の数百枚を中古屋にもっていったところで、あまりの安さに驚くことになりそうだ。どうも一切合切、好事家に差し上げたほうが、よほどすっきりしそうである。レア盤らしきものも、かなり含まれているとしても、である。さてどうしましょう。
(徒然亭)
SP・LP・EP・CD
みちくさ vol.43 No.1 (2017)
本コーナーの何回目だったか、SP盤のことを書き、最後に『この章、とりあえず「続く」、ですかね。』と結んだ。
実はこの「続き」も少し書き始めていたのだが、結局、ものにならず、そのときは放り出した。ところが最近、アナログ盤、復活の兆しだという。途中まで書いてあった草稿をもとに、マニアックになることは覚悟で続ける。
さて、LP盤とは「LONG PLAY」の略である。そうなるとSPの「S」とは「SHORT」と思われるかもしれないが、さにあらず「STANDARD」であって、これが毎分七八回転、片面最大五分。これに対し、LPは一九四七年、米国コロムビアで開発され、回転数は毎分三三・一/三、収録時間は片面二五分くらい(その後、バリアブルピッチの採用で三〇分を超えた)。材質は塩化ビニールであった。
これに慌てたのは米国RCA社。追いかけるように直径七インチ、四五回転のEP(EXTENDEDPLAY)盤を発売する。これがジュークボックス用の、いわゆるシングル(ドーナツ盤)の先祖。
そのステレオ化は五四年以降である。その初期の録音は米国RCAでシカゴやボストンのオーケストラによるものが多く、いずれもベートーヴェンの5番が含まれている。
これらの録音方式はいずれも磁気テープによるアナログであるが、七二年になるとデジタル録音盤が市販される。最初に録音機を発明したのは日本のデノンで、当時PCM録音といった。
このデジタル「初めて」の盤がスメタナ弦楽四重奏団のモーツァルト。これはLP時代に買った。確かに音はクリアになっているように感じた。
そして八二年、CDが出現。当時の価格は三千八百円、CDプレーヤーは十七万円前後。
CDに乗り換えたのはプレーヤーが比較的安くなり、販売ベースでCDがLPを追い抜いた八七年頃だったと思う。そしてCDはどんどん安くなり、よくまとめ買いもした。
筆者のオーディオセット、現在でもアナログシステムは動き、最近、カートリッジまで新調した。数百枚のLPやシングルもある。いずれ、これらの処分を考えなければならないのだろうが、...。
(徒然亭)
「男はつらいよ」に残された風景
みちくさ vol.42 No.6 (2016)
前回の「山田洋次監督が切り取った風景」の件の続きである。
映画「男はつらいよ」のロケ地を実際に歩いた、というサイトがいくつかあって、これらを眺めているだけで、なかなか面白い。
鉄道に限れば「旅と鉄道:寅さんの鉄道旅」という恰好の参考書もあり、これによれば、蒸気機関車が出てくるのは、第二から二二作までの十作品だそうである。
有名なのは第五作(一九七一年撮影)で、この小樽築港機関区やSL追いかけの場面は当時の国鉄の全面協力とのこと。機関区でちらっと見えるC62-2は今も京都鉄道博物館で動態保存されているが、疾走していたD51-27はこの撮影時には既に翌年の解体が決まっていたという話である。
筆者の出生地、小樽はこれ以外に一五作(七五年)と二二作(七八年、奇しくも最後のSL登場作品)にも出てくる。
一五作では今は無くなった青函連絡船と小樽運河の当時の風景がしっかり収められている。
二二作はその僅か三年後。ここではマドンナの故郷として、エピローグ的に、いささか唐突に小樽の正月風景、遠景それに運河が画面いっぱいに広がる。ただし、この間僅か三十秒、寅さんは出てこず、コタツでさくらとおばちゃんがマドンナ(大原麗子)から送られてきた小樽の絵葉書を見ている。その、さくらのセリフ、「よさそうな町ねえ、小樽って…」。
そういえば、小樽市が老朽化した倉庫群を取り壊し、この運河を埋め立てて、そこに六車線の大道路を建設するという案を出したのは六六年。これに反対する住民運動が起こり、それが十年以上続いたというから、これらの作品の撮影当時は、その運動の真っただ中であったわけだ。山田監督がこのことに無関心であったとは思えない。
その後いくつかの紆余曲折があり、最終的には、市の埋め立てプランの一部修正・運河の一部保存で決着、八六年、小樽臨港線が開通、散策路やガス灯が整備され、九六年、都市景観百選を受賞した、ということなのだが、その前の姿が「これ」なのである。
この小樽に限らず、第五作の東京ディズニーランドになる前の浦安など、かつての日本の風景は「男はつらいよ」のあちこちに出てくる。それもこのシリーズを不滅のものにしている理由だろう。
(徒然草)
寅さん
みちくさ vol.42 No.5 (2016)
前回、ビートルズ日本公演から五十年、などと書いたが、今年は田所康雄さんが亡くなって二十年目でもあった。
「誰、それ?」という人も多いだろう。俳優の渥美清さん、というより車寅次郎、「寅さん」といった方が通りはいいかもしれない。その関連番組や「男はつらいよ」から、いくつかの再放送があった。
この第一作の公開は一九六九年八月。実はこの前年の十月から半年間、山田洋次脚本、渥美清主演のテレビドラマがフジテレビで放送されていた。その最終回、寅さんがハブに噛まれて死んでしまう、その結末に対する視聴者からの多数の抗議が映画化につながったのだそうである。ただ、筆者、この頃、大学4年であるが、そのドラマを見ていない。
卒業後、大学院に進学した。公開当時は例の「学園紛争」の真最中、教室はロックアウト状態であった。無論、「暇」ではあったが、封切館で見られるほどリッチであるはずもなく、映画の第一作からの数作は、多分、当時、札幌の狸小路にあった格安映画館(八十円くらい)で、だったと思う。ただ、初期の作品は毎度のごとく、寅さんが振られるパターンだったから「何とかしろよ」という感じで見ていたものだ。その後、いつ頃からか、ほとんど封切直後に映画館を訪れることになる。
「男はつらいよ」関連の書物も多く、結構買い込んだ。またその公式サイトのほか実にマニアックな寅さんサイトもあって、『ロケ地探訪』までが掲載されている。
筆者の印象に残る作品といえば、マドンナ役ではなく、名優が重要な脇役で出てくるものである。例えば、一・八・二二作での博の父親、なんと北大名誉教授役、志村喬、二・七作での母親役、ミヤコ蝶々、一七作での日本画の大家役、宇野重吉、等々、書き出せばきりがない。
それに、山田洋次さんのその時代の切り取り方、とでも言うのだろうか、今ではもう見ることが難しくなってしまった「風景」が画像として収録されていること。「鉄道」もその一つと思っているのだが、これは次回に回そう。
田所康雄さんは晩年、俳句会によく顔を出し、二七〇句ほど残していたことを最近知った。中に、
蟹悪さしたように生き
というのがある。俳号は「風天」だったとのこと。
(徒然草)