にわかラグビーファン
みちくさ vol.45 No.6 (2019)
今年の秋は、ラグビーのワールドカップの話題で持ちきりであった。TV生中継があったプールAの最終戦、日本対スコットランドの視聴率は今年放送された全番組の最高視聴率で、試合終了時には五三・七%(関東地区)もあったそうである。筆者はTV観戦のみであったものの、よく見ていて、次第に「にわかラグビーファン」の一人になってしまった。
まず驚いたのは、日本代表の約半数が日本人ではなかったことであるが、このことはさておくとして、はまってしまった理由の一つは、それまでよく分からなかったルールを、丁寧に教えてくれる番組がいくつかあったからである。たとえば点数の入り方や反則の種類―「ノックオン」「スローフォワード」「ノットリリースザボール」ほか―とそれによる試合再開の方法など、基本的なことを知るだけでも、少なくとも四十分以上、画面から目が離せなくなる。
日本代表の試合ではやはり対スコットランド戦と南アフリカ戦の印象が残り、後者は負けてしまったけれど、特に前半は「もしや」とのやや淡い期待もあって実に面白かった。
以来、野球やサッカーを見ていてもなんとなく緊迫感が弱いような感じがしてならない。
で、先般、年末恒例の「新語・流行語大賞」ノミネート三十語が発表された。それを眺めているとラグビーのワールドカップ関連のものがなんと五件もあるのに気付いた。「にわかファン」のほかには「ジャッカル」「4年に一度じゃない。一生に一度だ。」「笑わない男」「ONE TEAM」。
その他では消費税引き上げ(「キャッシュレス/ポイント還元」「軽減税率」「〇〇ペイ」)、災害対応(「命を守る行動を」「計画運休」)に関するものそれぞれ複数。そして「スマイリングシンデレラ/しぶこ」「ポエム/セクシー発言」「ホワイト国」「MGC」「免許返納」「闇営業」「令和」「れいわ新選組/れいわ旋風」あたりは筆者でも解るが、そうでもないものも多い。たとえば「あな番」「おむすびころりんクレーター」「サブスク」「上級国民」「タピる」「ドラクエウォーク」「翔んで埼玉」「肉肉しい」...。
ノミネート発表以降にもいくつか追加したいものもありそうだ。「合意なき決定」「身の丈にあわせて」などというのはいかが?
(徒然亭)
今年のお正月
みちくさ vol.46 No.1 (2020)
いわば「正月」の風物詩でもあった「男はつらいよ」が途絶えてから二十数年。その第五十作「お帰り寅さん」を見に行った。第一作の劇場公開は一九六九年八月だから、それから五十周年でもあるという。
シリーズ主演の渥美清さんが亡くなったのは九六年で、その翌年の正月、地元の新聞に「寅さん」のことを次のように書いていた。筆者、五十歳のときである。
―(寅さんシリーズを)何時頃から見始めたのかはどうもよく思い出せない。少なくとも封切りを見ることはあり得ないので、おそらく一本立て八十円くらいで旧作をやっていた映画館だったと思う。学生には丁度いい値段と時間で、講義をさぼっては、よく行った記憶がある。でもこのときは「寅さん」は、僕にとっての正月映画ではなかったし、当時は「よく分からない映画」だったようで、あまり印象はない。第一、どれを見てもワンパターンだった。同じワンパターンならもっとハッピーエンドになればいいのに、と思った。今、それと同じものを見ても、もっと違った感情を覚えるのは、僕もそれだけ「年喰った」ってことなんだろう。
あの、「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で......」が消えてしまった。あれほど「日本のお正月」にふさわしいものはなかったのに。―
寅さんネタは本コーナーでも何回か書いているが、地元紙への正月号への寄稿は、その後も二十年近く続けており、関連した内容を含むものは数回あった。例えば、
―今年は「寅さん・三連発」の優雅な正月になった。シリーズが終わって十年、いまNHKのBSでその再放送をやっている。なにより、作り方が丁寧だ。見ていて、ホッとする。(〇六年)―
―BS・JAPANで「男はつらいよ」の全作品を流し始めた。なかで、SLはじめいろいろな「鉄道」がでてくる。...柴又駅での京成車両の変化も、マニアにとっては面白い。(一四年)―
そういえば、第五十作では現在の柴又駅が五十年前と比較できる。昔は自動改札ではなかったし、入ってきた電車には「押上行」とある。当時は上野・押上まで乗り換えなしで行けたのだった(マニアック過ぎる?)。
まぁ、今年のお正月はよかったと思う。最後のマドンナたちのそろい踏みは素敵だった。
(徒然亭)
しろうさぎ
みちくさ vol.45 No.5 (2019)
前号で、七十数年分の「木材工業」誌が収められたUSBのことを紹介し、これを読むのは「遺跡発掘作業のようでもあり、原稿ネタには苦労しなさそうではある。」と結んだ。そしてここ数か月、まさにその作業が続いており、飛ばし飛ばしながらも、やっと昭和期が終わるところまで来た。
実はこのコーナー、今回で三十回目になるのだが、その初回、業界関係雑誌のコラム欄として掲載されていた例として、この「木材工業」誌の「しろうさぎ」のことを書いている。
著者は斎藤美鶯先生で一九五七年七月号から一九八〇年三月号まで計二七〇回も連載され、その最終回は小生が初めて同誌に掲載された総説の余白の囲み記事になっていた。
ここで先生は、最初数回投稿した頃、『「木材工業」のような硬い本の窓欄では、レクチュアはいけませんよ』と、先輩のM先生から諭され、以来、聞いた話と木材との係わりをちょっと最後に触れる程度に止めた、と述懐されておられる。
そこで今回、連載が開始された頃の内容を知りたく、数編を読んでみた。先生は一九八八年に享年八三歳で逝去されたというから、「しろうさぎ」の執筆時は五二歳から七五歳ということになる。
いずれもとても面白い。示唆に富んでいる。そして木材規格の在り方について、ずいぶん書かれていることも知った。
例えば、一九五八年十月号の「チャンスは今だ」では、
『メートル法施行で、われわれの用材規格も改正しなければならなくなった。...
戦前、JISがJESであったころ、立派な木材規格があった。この規格は、すでにメートル法を採用し標準寸法も理論的なものであった。それだけに当時の商習慣になじまれず、僕の記憶ではおそらく一度も使われなかった規格である。僕は、抜本的な改正といったが、だからといってこのように業界から浮き上っても理想的なものをつくれといっているのではない。ただ、政府も、業者も消費者も一体となって、この際建設的な規格改正をやらなければ当分チャンスは来ないということをいいたいのである。』
一九七四年四月号には二百回記念文が掲載されている。これも面白い。ぜひ一読されたい。
(徒然亭)
木材加工技術協会の古希
みちくさ vol.45 No.4 (2019)
先日、木材加工技術協会の機関誌「木材工業」、その創刊号から昨二〇一八年十二月発刊の八六一号までを収めたUSBが送られてきた。これは同協会創立七十周年事業として作成されたものだそうで、六十周年のときのDVDに比べてはるかに使い勝手が良くなっている。製作に携わった協会の方々に敬意を表したい。
さてその創刊号から逐一読んでいくと大変なことになりそうなので、とりあえず総目次を眺めることにした。
そこでまず引っかかったのは創刊発行日と発行所の件。発刊は一九四六年四月(つまり筆者と同期生!)であるが、発行元は「森林文化会」とある。木材加工技術協会の創立はその二年後の一九四八年三月で、それ以降が同協会の発行になったわけだ。
なお「文化会」は翌年「財団法人林業経済研究所に併合」されることになり、ここに発行部が置かれていた。したがって発行所は二回変更されていたことになるが、いずれの組織も当時目黒にあった国立林業試験場内にあった。
で、第一巻一~三号でのタイトルを見ると、木材強度や木質構造に関係するものが多いように思った。例えば「使用応力決定因子(大澤正之)」「木材の理学的性質(矢澤亀吉)」「積層木材(平井信二)」「九州産構造用木材の強度(渡邊治人)」「木造住宅構造(中村源一)」。これらの著者のうち、大澤・矢澤の両先生はのちに北大の教授となられている。また「木材強度の徹底的研究」「木材学者の奮起を望む」という気になる表題のものもある。いずれも編集長(?)である田中勝吉先生の作。
他の学協会の動向も把握できる。第五巻二号(一九五〇)には「日本木材保存会の設立」と題した芝本武夫先生の記事がある。本誌の発行元「日本木材保存協会」は一九二四年の「木材保存研究会」発足後いくつかの組織変更を経て現在に至るわけだが、一九四八年に「日本木材保存会」に改組され、一九五五年になって同会の業務は木材加工技術協会の木材保存部会に継承されているのだ。
ついでに言えば木材学会の創立は一九五五年でその件についても同誌に掲載されている。
ここまででやっと創刊後十年分。あと六十年以上も残っている。先は長いが、遺跡発掘作業のようでもあり、原稿ネタには苦労しなさそうではある。
(徒然亭)
週休七日制
みちくさ vol.45 No.3 (2019)
先般、一連の改元関連行事があった。このとき五月一日の新天皇の即位日を今年に限り「祝日」としたため、その前後の日が「国民の休日」となり、完全週休二日制の官公庁等では、結果として十連休になった、というわけである。
小生が就職した一九七二年頃の土曜日の業務は午前中に終了、午後は休み。これを「半(はん)ドン」―今やもう「死語」―といった。なお、この「ドン」の由来は「オランダ語で日曜日を意味するゾンタクの訛り」など数説がある。この制度は一八五〇年のイギリスに始まり、日本には一八七六年に官公庁に導入された。週休二日制の企業が増えてくるのはその百年後の一九八〇年頃からで、一九九二年五月に国家公務員の完全週休二日制、二〇〇二年度から公立学校の完全週五日制が実施される。
一方、祝日数は一九九二年には十三日、今は十六日もある。この数は先進国中では最多なのだそうで、この背景として、積極的に有給休暇を取りにくい日本の労働事情に配慮して、公的休日を多くしている面もあるという。
祝日が日曜日の場合、その翌日の月曜日を振替休日とする制度は一九七三年からで、それまでは振替はなかった。そして次第に祝日が増えていき「国民の祝日の日曜日の翌日の月曜日以降の国民の祝日でない祝日の翌日を休日とする」ことになる。これが冒頭の「十連休」につながる。
この評価にはいろいろあるようで、ネット上でも、曰く、
『経済全体にはプラス。国内外への旅行関連だけで三三二三億円の追加需要となり、四―六月期の実質GDPを+〇・六%ポイントほど押し上げ、政府にとっては「旱天の慈雨」。「カネのかからない経済対策」ということが認識され、来年以降も祝祭日に平日を組み合わせるなどで「大型連休」作りが行われる予感。』
『満員電車でもみくちゃにされていたのが、行楽地や高速道路でもみくちゃにされるのに変わっただけの話。今回のような連休が働き方改革の一環だとか、国内産業の活性化につながるとか触れ回っているが、長い目で見るとまったくそんなことはなく、むしろ社会が抱える諸問題を悪化させてしまう。』というのもあった。
週休七日制にある私には異国の話のようでもあるが、著しく同意する。
(徒然亭)