木材保存誌コラム

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運転免許証の自主返納

虫めがね vol.49 No.5 (2023)

わたしはこの五月中旬に最寄りの警察署に行って自動車の運転免許証を返納した。高齢者の自動車事故が多発しており、わが女房の強い希望に沿って返納する決心をした。

警察署に行って窓口で免許証の返納を申し込むと係官(女性)は、「はい、ここに住所と名前と生年月日を書いて」、そして「返納の理由のところには、今後運転しないためと書いて」、「はい、これで終わりです」といかにも事務的で味気ない。こちらは五十年以上無事故で運転してきた免許証を一大決心して返納に来たのである。しかも免許証はゴールドである。「長い間お疲れ様でした」とか、何らかの労いの言葉があっても良さそうなものにと寂しい思いがした。警察署にそんなことを期待しても無理なことは十分分かっているが・・・。

警察署からの帰途はもちろん車の運転は出来ないので、バスと徒歩で帰るわけだが、自分の体から何か大きな力が抜けていったような「オレの人生も黄昏に差し掛かったのかな・・・・」と寂しい気持ちになった。太陽は東から上がって西の空に沈むが、オレは西日のどのあたりだろうか?

わたしが住んでいる市では高齢者が運転する自動車事故を減らすために「高齢者運転免許自主返納キャンペーン」というのを今年から開始した。満七〇歳以上の高齢者が運転免許証を自主返納したら、公共交通機関で使える五千円分のポイントカードが市役所から送って来た。これはせめてもの供養というものであろうか。

思い起こせば、この免許証はわたしが大学四年生の時に取った。自動車教習所が大学に隣接したところにあったので、授業の合間に大学を抜け出して隣に行って運転の講習を受けたのを覚えている。免許証を取得したら、すでに免許証を持っている学友たちと夏休みなどを利用して車で長崎観光や阿蘇・久住高原ツアーなどを楽しんだ思い出がある。

高齢者用に開発された電動アシスト付き三輪自転車というのがあるようだ。スピードがあまり出ず安全で、近隣の店に買い物に行く時なんかに便利なようだ。しかし、これも身体機能が低下したわたしには危険に思えるので利用しないことにしている。これからはどこに行くにも女房にお伺いを立てて、女房の運転する車に乗せてもらうか、バスと徒歩で出かけることになる。ちょっとした買い物に使うリュックも新しく購入した。健康の為にも足腰を鍛える為にもこれを背負って"あるけ、歩け"で行こうと思っている。

♪まだまだと米寿祝いの柿植える

(赤タイ)

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コラム「虫めがね」九〇回目

虫めがね vol.49 No.4 (2023)

わたしのこのコラムの第一稿は第三三巻第三号(二〇〇七年)に掲載されたので、それから足掛け一七年で、今回がちょうど九〇回目となる。一七年とはよくぞ続いたものだと自分でも思うが、雑誌「木材保存」の発行が二ヵ月に一回であり、このコラムを書くのに大して負担にならないことが大きな理由であろう。

わたしは満六〇歳で某化学会社を定年退職し、その後ある私立大学に再就職した。社内のあちこちのお世話になった人たちに退職の挨拶をして回っていたら、ある女性から「これからは大学で若者たちを相手の仕事になるので、企業時代の渋い色のネクタイは全部捨てて、赤いネクタイを締めて若返って出発して下さい」との助言をもらった。この助言に従って、赤いネクタイを数本買い、それを締めて新しい職場に赴任した。このコラムのペンネーム(赤タイ)はこれに由来する。

このコラムの前任者は「木くい虫」のコラム名で書いておられたようだが、わたしは編集委員の方と相談して「虫めがね」にしていただいた。日頃、身近に見ている何でもなくて見過ごしている物でも、虫めがねを通して見てみると違った世界が見えてくるという意味合いでこの名にした。

このコラムを引き受けた当初の頃は、「木材保存」の購読者は生物系の人が多いのではないかと考えてコラムのテーマを生物に因んだ内容にしようと心掛けた。ところが何年か書いているうちに、元々、生物が専門でないわたしには原稿のネタが枯渇してくるのに気が付いた。このままではこれから先コラムが書けなくなるのではないかと心配になった。それでいまでは方針転換して生物絡みに縛られないで、その時、その時の思いつくテーマで自由に書くことにした。これもコラムが続いた理由の一つであろう。

わたしは十年ほど前から朝日カルチャーセンターの川柳教室に通って川柳を学び始めた。その動機は人生のそれぞれの節目で見たこと、聞いたこと、感じたことなどを十七文字に濃縮して言葉にすることに興味を覚えたからである。近頃は新聞の川柳欄に投句して、ときどき掲載されるようになった。このコラムの読者にも読んでもらいたいと思うようになり、このコラムを書く時に、その最後の行にこっそりと一句を加えることにした。それは第四一巻四号(二〇一五年)から始めたが、「木材保存」の読者の方々にとっては下手な川柳を読まされて大変な迷惑と思うが、申し訳ないが見逃して欲しい。

♪川柳の着想拾う万歩計

(赤タイ)

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わたしは蚊に刺されやすい

虫めがね vol.49 No.3 (2023)

わたしは蚊に刺されやすい体質だと自分では思っている。夏の夕方に近くの盆踊りを見に出かけると、腕のあちこちが赤く腫れて痒くてたまらない。周囲にいる人たちを見ると大して蚊などは気にせずに盆踊りを楽しんでいる。また、夕涼みを兼ねて散歩に出かけると、同じように腕や脚が刺される。昔の話になるが、わたしが仕事でイタリアに出張した時に、夕暮れ時に屋外で仕事をすることになった。夏だったので半袖シャツを着ていたが、わたしは両腕のあちこちが蚊に刺されて"ぷくっ"と赤く腫れて痒くてたまらなかった。一緒に仕事をしていた同僚のイタリア人男性はわたしの腕を見てケラケラと笑っている。彼は何ともないらしい。

蚊は人から吸血する際に口吻の針を人の皮膚に刺し込むと、目的をスムーズに達成する為にまず針を通して唾液を人体に注入する。この唾液には人が吸血されているのを感じさせないように局所麻酔剤や、吸血中に血液が固まらないように血液凝固抑制物質、それに消化液などが含まれている。これらの物質(タンパク質)は吸血される側の人体にとっては異物であり、その異物に対するアレルギー反応として人の皮膚は赤く腫れて痒くなる。アレルギー反応なので異物を攻撃しようとする免疫機構が働いてIgE抗体ができる。この免疫反応には個人差があって刺されると過敏に反応する人や無反応の人もいるらしい。無反応の人は当然赤く腫れないし痒くはならない。

蚊が人に近づくのは、遠方からは人の呼気からでる二酸化炭素や体表から出る汗などの水分、汗に含まれる乳酸やオクテノールに誘引されて近づく。ある程度近づくと、人の体温や色を感知して近づく。肌の色は白いよりも黒い色(黒人や日焼けした人)に惹かれるようだ。

つまり、蚊に刺されやすいと感じている人は蚊を誘引しやすくて、さらに刺された後の免疫反応の敏感さの両方が関与しているようだ。

わたしの場合、イタリアの例ではイタリア人(白人)よりわたし(黄色人)の方が肌の色が黒いので刺されやすいと言えるかもしれないが、日本でも盆踊り見物などで刺されやすいと感じるので、体表からでる汗や呼気に含まれる誘引物質が多いのと免疫反応の過敏性によるのではないかと思っている。

♪順風に逆らい飛ぶか赤蜻蛉

(赤タイ)

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殺虫剤を使わないで害虫駆除はできますか?

虫めがね vol.49 No.2 (2023)

あるセミナーで「生活害虫とその対策」と言う演題で講演をした。わたし達の身辺にいるハエ、蚊、ゴキブリ、蚤、シラミなどの生活害虫駆除がテーマである。このような時によくある質問は、

「殺虫剤を使わないで害虫駆除は出来ないでしょうか?」

である。このような質問が出ると、申し訳ないが、わたしはいささかうんざりする。なぜなら、この質問者は、「殺虫剤は悪玉で、使わない方が良い」という先入観が背景にあっての質問と思えるからである。わたしは殺虫剤を悪玉とは思っていない。たとえば、人が病気になった時に医者からもらって飲む医薬品にも、病気を治す善玉もあれば、使い方によっては、人体に害を与える悪玉もある。同じように、害虫駆除に使う殺虫剤にも、害虫を駆除してくれる善玉もあれば、使い方によっては人の健康に悪影響を与える悪玉もある。

このような質問があった時には、

「殺虫剤を使わない害虫駆除の方法はあります」

と、まず答えることにしている。そして、たとえば、人が病気になった時に、医薬品を使わないで治そうとする場合、どんな手段があるでしょうか。まず、日々の食事の改善、適度の運動、規則正しい生活、それに、針・灸・マッサージや温泉療法なども考えられる。しかし、これらの方法は、対象となる病気には限界がある。どんな病気でもこれで回復と言うわけにはいかない。更には、軽度の症状には効果があっても、かなり進行した病気には、これらの方法では不十分だろう。同じように、害虫駆除にも、ハエ叩きで殺したり、ハエ取りリボンのような粘着シートで捕獲したり、光による誘引捕殺器や、ゴキブリやトコジラミなどを真空掃除機のようなもので吸い取って除去する方法や、蚊の幼虫(ボウフラ)が生息している湖沼などにカダヤシやグッピーなどの小魚を放流してボウフラを食べさせたり、また、庭に鶏を放し飼いにするとハエの幼虫(ウジ)を食べてくれる。家屋の窓を網戸にしたり、蚊帳を使用して蚊から刺されるのを防ぐ方法も可能である。しかし、これらの方法も対象害虫に限界があり、また、何らかの理由で害虫が大発生した時にはお手上げである。そんな時には、やはり殺虫剤に頼らざるを得なくなる。

最近の考え方は、「総合的有害生物管理」(Integrated Pest Management)と言って、殺虫剤を使わない方法と殺虫剤を使う方法の両者の長所を組み合せて、有害生物を管理しようという方向です、と説明して締めくくっている。

♪不満など言わずに蟻は列を行く

(赤タイ)

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疫病大流行と社会変革

虫めがね vol.49 No.1 (2023)

中国武漢発の新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が流行ってからすでに三年余り経つ。このパンデミックは人々の生活のやり方や政治に変革を強いている。大学の授業ではオンラインを取り入れているし、入学式・卒業式などは本人だけの出席でやったり、同窓会、忘年会、新年会などは中止が増えた。葬式も少人数で行う家族葬が増えた。電車やバスに乗っても皆さんはマスクをしており、以前のように隣席の人とのおしゃべりに興ずる姿は少ない。会社の業務も、営業などの対面が必要な部署を除きテレワークによる自宅での業務が認められ、会社には週に数日顔を出せば良い所が増えた。また、自宅に居ることが多くなり、犬や猫などのペットの飼育頭数が増えた。三密、黙食、クラスター、ロックダウン、ソーシャルディスタンスなど、使い慣れない言葉が定着した。 まだまだ変革は続くだろう。

今から約一三〇〇年前の天平時代にも疫病(天然痘)が大流行した。天然痘はインドが発源地で、インドの仏教の伝播と同じルートでインドから中国へ、そして新羅へ伝播し、九州に侵入したと考えられている。当時、新羅と日本は遣新羅使の派遣や、商人、漁民など人や物の交流が活発に行われており、天然痘はその玄関口である九州にまず侵入した。九州から東進し、当時の首都平城京や畿内以東にまで蔓延した。三年(七三五-七三七年)続いた疫病で当時の日本の総人口約五〇〇万人中一〇〇-一五〇万人(二〇-三〇%)もの人々が亡くなったと「続日本記」に記載されている。時の為政者 聖武天皇は都を平城京から難波京(今の大阪市)へ避難させた。そして仏教に救いを求め帰依を深めていった。諸国に国分寺を建立し、奈良には東大寺を起工し、東大寺大仏の鋳造を命じた。また、中国から高僧鑑真を招聘し、唐招提寺を建立した。やがて平安時代には遣唐使として派遣されていた最澄が天台宗を、空海が真言宗を開き、仏教文化が開花した。

この時、農地を耕作していた大勢の農民が亡くなったため、農地が放棄され、食糧不足が起こった。やむなく農業の生産性を回復させようと「墾田永年私財法」を施行し、農民に土地の私有を認めた。これは土地がすべて国家のものであった律令制が崩壊し、のちに有力貴族や寺社が広大な荘園を持つようになり、貴族政治への変革となる。

天然痘は一七九八年にイギリスのジェンナーが「牛痘」を用いたワクチンを開発し、今では人類社会から消滅したが、天平時代には、そのような方法は無かった。死者も多く疫病に対する民衆の恐怖感も強かったであろう、それ故、社会の変革も桁違いに大きかったことが分かる。

♪テレワーク枯れた頭が追い付かぬか

(赤タイ)

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