映画「ジュラシック・パーク」の蚊はオス
虫めがね vol.48 No.1 (2022)
蚊の主食は雌雄ともに花蜜や植物の汁液に含まれる糖である。ところがメスの蚊は卵巣を発育させ産卵する為に高タンパクの血液を必要とする。その為、メスの蚊は動物(哺乳類や鳥類など)から吸血するが、オスは吸血しない。従い、あなたの周囲に纏いつき隙あれば血を吸ってやろうと狙っているのは、すべてメスの蚊だ。このことは、蚊を少し勉強された方ならご存知のことである。
これについて面白い話がある。スティーヴン・スピルバーグ監督による「ジュラシック・パーク」という米国映画がある。これはマイケル・クライトンのSF小説を映画化したものである。一九九三年七月に日本でも公開され、空前の興行収入をあげたという大ヒット映画である。この映画の内容は、今から約六五〇〇万年前に絶滅した恐竜の血を吸った蚊が、そのまま琥珀(こはく)(樹脂が化石化したもの)に閉じ込められた状態で現代に発見され、その蚊の体内から血液を抜き取り血液中の恐竜のDNA(遺伝情報)を使って、今の世に恐竜を復元するという話である。ところがある時、居酒屋で友人と雑談している時に、「あの映画に登場している蚊はオスの蚊である。オスは吸血しないので恐竜の血は採取できない筈だ」という話を聞いた。この話が頭に残っていたが、最近この映画がテレビで放映されたので、録画して蚊の状態をじっくり観察した。すると友人が言ったようにオスの蚊だった。蚊のオスとメスはその触角を見れば容易に識別できる。メスの触角は単純で棍棒のようであるが、オスの触角は毛がふさふさしている。監督のスティーヴン・スピルバーグは蚊のオスは吸血しないことを知らなかったのか、知っていてもオスとメスは外観上大差なかろうと判断したのかどうかは分からないが、映画で画面中央にアップされた蚊は触角の毛がふさふさしており、明らかにオスだった。
この話には落ちがある。二〇一二年に発表された米国のマードック大学の研究によるとDNAの半減期は約五二一年であり、DNAの遺伝情報が安定的に存続するのは約一〇〇万年である。それで約六五〇〇万年前の恐竜の血液を抽出しても遺伝情報はすでに分解しており、取り出せないことが分かった。
いずれにしても、この映画はSF娯楽映画であり、大阪にあるテーマパークのユニバーサルスタジオ・ジャパンでは、アトラクションにジュラシック・パークが取り入れられている。大勢の観客の前に突然恐竜が現れて、驚かせて観客を喜ばせている。わたしも孫を連れてユニバーサルスタジオに行ったことがあるが、歩いていると突然後方から恐竜が現れてびっくりした思い出がある。
♪蚊は好きな相手を選び吸血す
(赤タイ)
パナマ運河開通と総合防除
虫めがね vol.47 No.6 (2021)
害虫防除に係わる人たちにとって、今では常識である総合防除(IPM)の考え方は今から五五年ほど前に農業分野で始まった。当時はDDTやBHCなどの有効な合成殺虫剤が開発され、それらを多用・過剰に使用した結果、害虫の殺虫剤抵抗性発現やチョウ、トンボ、ホタルなどの有用昆虫の減少、そして昆虫類を捕食して生きている小鳥の減少などの環境破壊を起こしたことへの反省に基づいて出された考え方である。
その考え方の骨子は害虫の発生源除去、侵入防止、環境整備などの「生態的防除」を基本とし、それに網戸、蚊帳、捕虫器、誘殺器などの「物理的防除」や天敵などの使用による「生物的防除」を最適に組合せて防除し、殺虫剤による「化学的防除」は必要最小限に抑えるというものである。
ところがIPMの考え方が提唱される六〇年も前に蚊の総合防除を実行した男が居る。米国陸軍軍医W・ゴーガスです。大西洋と太平洋を結ぶパナマ運河は一八八〇年に仏人レセップスにより掘削が開始された。ところが工事開始後約一ヶ月で一〇三九人もの労働者が黄熱にかかって死亡した。七年後には、工事関係者の約二万五千人が黄熱とマラリアで亡くなった。彼が工事指揮者としてヨーロッパから連れて来た約五百人の技術者の大半が黄熱とマラリアで死亡するか、重症で本国へ送還され、工事続行が不可能となった。レセップスはやむなくパナマ運河建設計画を放棄した。
一八九八年 米国は米西戦争に勝利し、キューバの統治権をスペインから得た。米国はキューバの権益を守る為に太平洋の軍艦をカリブ海に向かわせる軍事戦略上の必要があった。一九〇三年、米国は国家プロジェクトとしてパナマ運河の再起工を開始した。少し前に英人R・ロスは蚊がマラリアを媒介すること、米人W・リードは蚊が黄熱を媒介することを明らかにしていた。それでルーズベルト大統領の指示のもと、ゴーガスは約四千人の衛生部隊を編成し、徹底した防蚊対策を実施した。当時はDDTなどの合成殺虫剤は誕生しておらず、使える殺虫剤は天然ピレトリンがあったが、まだ生産量が限られていた。それで、ゴーガスが実施した防蚊対策は、①運河ルート沿いの水溜りを全部乾しあげる発生源除去、②草むらを焼却する環境整備、③沼地には鉱油を流し込む幼虫対策、④工事関係者の家屋に網戸を普及する物理的防除などを大々的に実行した。そして、一九一四年八月、米国はパナマ運河を開通した。
ゴーガスは当時は陸軍少佐だったが、この防蚊対策などの功績により最後には陸軍軍医総監にまで出世した。
この米国のパナマ運河建設工事には当時二六歳の日本人技術者 青山士(あおやまあきら)が参加し、活躍したという逸話がある。
♪IOC I OWE CASHの意味なのか
(赤タイ)
俳句と蚊帳
虫めがね vol.47 No.5 (2021)
先日、NHKテレビの俳句教室で「蚊帳(かや)」を課題とした投句を紹介していた。蚊帳は夏の季語であり、夏の生活必需品であったが、今ではすっかり姿を消している。若い世代にとっては名前は聞いたことがあっても、見たこともない道具であろう。それゆえこの番組に興味を覚え録画して視聴した。投句した人たちは当然それなりの年配の詠み手であろう。秀句として、富山県の藤瀬晴夫氏の
“蚊帳の中 明日の剱(つるぎ)岳の地図披(ひら)く”
が選ばれた。
蚊帳はわが国では、すでに奈良時代には貴族階級では使われていたが、庶民の手に届くようになったのは江戸時代になってからである。奈良や近江(滋賀県)で生産された麻蚊帳が舟で江戸に運ばれて江戸の町で売られた。「蚊帳売り」が“蚊帳ァー、萌黄(もえぎ)のかやァー”と美声を張り上げて江戸の町を売り歩いたそうだ。
“蚊帳売りの声のいいのを女房呼び”
という古川柳が残っている。
蚊帳の色は麻の生地である明るい茶色が一般的であったが、江戸時代に「近江蚊帳」の製造者が若葉の涼味あふれる緑色にヒントを得て萌黄(もえぎ)色いろ(黄色みがかった緑色)の蚊帳を売り出したら、これが大好評を博して定着したと、ふとんの西川の社史に書かれている。
わたしも子どもの頃は寝る前に蚊帳の四隅にある紐を部屋の柱に掛けて吊って寝ていた。朝になるとこれをはずして蚊帳を畳んで片づけるのが子どもの役目だった。
今では蚊帳はキャンプの時に使うとか、別荘で使うとか、赤ちゃんに蚊は心配だが、電気蚊取り液などの薬剤を使うのは嫌だという健康志向のお母さんたちなど、一部の愛好者向けに売られている。
調べてみると蚊帳は古くから俳句や川柳の句材になっていたのが分かる。江戸後期の小林一茶に次のような俳句がある。
“馬までも萌黄(もえぎ)の蚊屋にねたりけり”
“夕風や馬も蚊帳つる上屋敷”
“留守中も釣り放したる紙帳(しちょう)かな”
紙帳とは麻製の蚊帳が高価で買えない庶民が愛用した和紙を貼りあわせて作った安価な蚊帳の事である。上級武士は愛馬にも蚊帳を吊ったが、一茶はどうやら紙帳で満足したようである。
“蚊屋の内ほたる放ちてああ楽や”
(与謝蕪村・江戸中期)
わたしも子どもの頃、近くを流れる小川でホタルを捕えてきて蚊帳の中に放した。ホタルは蚊帳の壁面に留まってほのかに光を放っていたのを想い出す。
近ごろは蚊帳はもちろんホタルもほとんど見かけなくなった。俳句の世界のものになったのであろうか。
♪炎天下逃れて青い森の中♪
(赤タイ)
江戸の町は完全リサイクル社会
虫めがね vol.47 No.4 (2021)
最近「リサイクル社会」という言葉を新聞などで良く目にする。人類は近代に入って大量生産、大量消費を謳歌し、それが豊かな社会と誤信してきた。大量消費は大量廃棄に繋がる。地球が無限大であればそれでも何とか治まろう。ところが七八億を超える人々が地球に大量廃棄していては、いずれ地球はごみの山になり、人間は住めなくなることに気付いた。それで持続可能な社会の実現の為にリサイクル社会(循環型社会)の構築が叫ばれている。
今から約三〇〇年前のわが国の江戸の町は完全なリサイクル社会であったことはあまり知られていない。当時の江戸の人口は一〇〇万人を超えてパリやロンドンと肩を並べる大都会であった。当時は大量生産の技術は無く、少量生産、少量消費が生活の基本となる。着物は高価なものなので庶民は母親が大切に使っていた古着を譲り受け、それを娘が着る。娘はそれを仕立て直して孫娘に着せる。それがボロボロになると雑巾やおむつとして使う。このように「少ない物」を修理再利用して最後まで「使い切る生活」であった。その為の修理屋や回収業者がたくさん活躍していた。
傘や提灯を張り替える「張替え屋」、茶碗、瀬戸物類を接着再生する「焼や き継つぎ屋や 」、金属製の鍋、釜を修理する「鋳い掛かけ屋や 」、下駄の歯や鼻緒をすげ替える「朴ほ お歯ば屋や」、煙き せ管る の竹の部分を取替える「羅ら宇お屋や」、桶、樽の箍たがを締め直す「箍たが屋や 」、古紙を買い集めて再生紙を作る「紙屑買い」など、多種の職人や商人が江戸の町を回っていた。このようにすべての「物を使い切る社会」であったので、江戸の町にはごみが無かったと言われている。
極め付きは人間の排泄物の糞尿である。欧米では糞尿は川に流して捨てた。そのせいでパリのセーヌ河やロンドンのテムズ河は大悪臭であった。ところが江戸では近郊農家が肥桶を担いで武家屋敷や町家を回って糞尿をくみ取り、ナスや大根などの野菜と交換した。更には「下肥仲買人組合」が糞尿を現金で買い取り、小舟で農村に運んで商品として売買するビジネスが成立していた。人間の糞尿は肥料として土に返し、その土で栽培した米や野菜を人間が食するというリサイクルが成立していた。江戸末期に日本の農業事情調査にやって来たプロイセン王国(現ドイツ)のマロン博士は、日本の農業における徹底したリサイクルに強い感銘を受けたことを記している。
明治になって日本は西欧文化を積極的に導入した。その結果として、まだ着られる服を流行遅れだからと廃棄し、故障した電気製品は修理代よりも新製品を買った方が安くつく、と廃棄するという変な社会になっている。「物を使い切る文化」から「捨てる文化」に落ちてしまった。
♪まだ食べられるのに捨てている平和
(赤タイ)
「ロンドン大疫病」とニュートン
虫めがね vol.47 No.3 (2021)
一六六四年十一月にロンドンの西部でペストが発生しました。その後、しだいに東部、北部にも広がり、ロンドンの各所で猛威をふるいました。翌年の夏頃には一晩のうちに千人もの人が亡くなりました。大学も閉鎖され学生たちは故郷へ帰りました。宮廷もロンドンからオックスフォードへ避難しました。貴族や紳士のようなお金もちは家族や使用人を引き連れて、ロンドンを脱出し、田舎の別荘や知人を頼って避難しました。貿易商や船主などの富裕者はロンドンの中心を流れるテムズ河に船を浮かべて家族で船上に避難した人たちもいました。数百隻の帆船がテムズ河に並んで浮かんでいたそうです。一般庶民は田舎へ避難しようにも、生活の手段(生活費)が無いのでロンドンに居るか、一部は郊外や森に避難しました。当時のロンドンの人口約四十六万人のうち、約六万九千人がペストの犠牲になったという記録があります。避難先で亡くなった人もかなりいます。それらを加えると死者約十万人(約二十二%)という「ロンドン大疫病」として知られる歴史に残る大惨事です。
ロンドンでまだペストが流行している最中の一六六六年九月の深夜に、パン屋から出火した火事が四日間に渡って燃え続けるという「ロンドン大火災」が発生しました。この火災で多くの教会と住宅の八十五%が焼失した空前の大火災です。ところが、この大火災によりペストの保菌動物である家ネズミやそれに寄生している媒介昆虫のネズミノミが大幅に減少したおかげで、猛威を振るったロンドンのペストは一六六七年に入ると自然に終熄しました。
「庭の木からリンゴが落ちるのを見て万有引力を思いついた」という逸話があるアイザック・ニュートンは、当時、ケンブリッジ大学で研究生活を送っていました。ペストの大流行で大学が閉鎖になったために、やむなく故郷のウールスソープに帰りました。大学の雑事から解放された彼は研究に没頭しました。「万有引力の法則」、「微積分法」、「光の分光的性質」などのニュートンの三大業績と言われるものの基本構想はほぼこの十八ヶ月の避難生活時代に出来上がったそうです。わたしはかって所用でケンブリッジ大学に行ったことがあります。その時、学内を案内してくれたマウンダー教授が指差して「あの窓の研究室がかってニュートンが研究していた部屋です」と教えてくれたのを想い出す。
いま、日本政府はコロナ禍対策で、不要不急の外出は控えて自粛するように呼びかけている。自粛して余裕ができた時間をニュートンほどにはいかないまでも有意義な時間に活用できたなら素晴らしいと思っている。
♪ 分かるまい 上手にさぼるオンライン
(赤タイ)