木材保存誌コラム

ホーム > 木材保存誌コラム > 虫めがね

木材保存誌コラム

ツバメの巣作り

虫めがね vol.41 No.5 (2015)

我が家から歩いて五~六分の所にバス停がある。このバス停に面した民家の玄関の軒下に、六月頃になるとツバメが毎年のように巣を作る。今年も巣をつくり夫婦で交代で卵を温めていたが、二週間くらいしたら三羽の雛が孵った。親鳥が餌を持って帰ってくると、雛鳥は大きく口を開けてピーピー鳴いて親鳥に餌をねだる。この可愛い光景を見ると、我が家の軒下にもツバメが巣を作ってくれれば良いのにという気持ちになる。

ツバメは何故このような、人の往来が多い場所に巣を作るのだろうか。人が恐くないのだろうか。ツバメは農作物を荒らす害虫を食べるので、昔から益鳥として大切にされていたからだろうか、などと思っていたら、ツバメは人の往来が多くて、カラスやヘビなどの天敵が寄り付かない場所を選んで巣を作っていることが分かった。スズメバチなどハチ類は一度使った巣は捨てて、二度と使わない。ところが、ツバメは一度雛が育った巣は安全な場所だと確認されたわけなので、同じ巣に再度産卵し雛を育てる。雛は親鳥が餌を持って来たときはピーピーと餌をねだっているが、給餌が終わって立ち去ると巣の中に身を隠して静かにしている。天敵に自分の存在を悟られないように防御しているのだ。そういうわけなら、我が家にツバメが巣作りするのを期待するのは諦めねばなるまい。我が家はそれほど人の往来は多く無い所にあるからだ。それにしても、この場所ならカラスも近寄らないだろうと、どうやってツバメは判断するのだろうか。

夏の夕方にツバメが地表近くを低空で飛んでいたら、昔から“明日は雨”と、天気予報になると言われている。これは気圧が下がり、天気が雨の方に向かって行くと、大気の湿度が高くなってくる。すると、ツバメが餌にしているトンボ、ガガンボ、蚊、羽アリなどの飛翔昆虫の翅が柔らかく湿り、上空から地表近くを低空で飛ぶようになる。ツバメはこの餌を狙って低空で飛ぶわけである。私が育った福岡の田舎では、子どもの頃にツバメが低空で飛ぶのを見ると、

「ア! あしたは雨や」と、子どもながらに言ったものである。

もっとも最近はツバメの数も少なくなり、低空で飛ぶツバメを見る機会も少なくなった。淋しい限りである。

♪故郷の川に蛍の光なし♪

(赤タイ)

ページトップ

虫が怖い

虫めがね vol.41 No.4 (2015)

先日のテレビの報道で知ったのだが、小学生用のノートの表紙には、これまではきれいな蝶やテントウ虫の写真や草花の写真などが入れてあった。ところが、最近の子ども達は、虫を怖がる。蝶の写真でも嫌がって、そのノートを学校に持って行かない。ノートメーカーも売れなくなったら困るので、虫のノートは止めて花のノートだけにするそうだ。蝶のあの鮮やかな綺麗さは、花の綺麗さと同じような気がするが、最近の子ども達には違うようだ。

私の身近に小学生の男の子を持った家族がある。母親は虫嫌いで、息子が蝶に近づいたり、セミ採りに行こうとすると、「ああ、こわい、怖い」を連発する。息子は母親のその様子を見て、次第に虫嫌いになり、蝶がひらひらと近づくと逃げようとするようになった。父親は仕事が忙しくて、息子を連れてセミ採りに行ったり、昆虫館に連れて行く暇がない。その結果、母親の影響を強く受けて虫嫌いになってしまった。人間の感性の基本的なものは小学生の頃までに出来上がってしまうので、これは残念なことである。

私が勤務している大学の授業で、学生たちを昆虫館に連れて行ったことがある。ところが、入り口に立ち止まって、じっとしている男子学生がいた。「早く中に入りなさい」と言うと、「僕は虫が怖いのです」と言う。冗談かと思ったが、良く見ると、顔色が青ざめている。どうやら本当らしい。それで彼だけは外で待っていてもらうことにした。

私の友人に蝶のコレクターがいる。彼は日本にいる蝶はほとんど採りつくし、今では東南アジアや南米にまで出かけて蒐集している。同伴の家族が観光している間にも、本人は捕虫網を持って山野を駆け巡っているそうだ。彼にとっては観光よりも珍しい蝶一匹の方がはるかに価値があるのだろう。彼は小学生の頃に蝶に魅せられて、今に至ったようだ。

日本語では、古くから「虫が好かない」、「虫がいい」、「腹の虫が治まらぬ」、「虫歯」、「虫が付く」など、虫は余り良い意味では使われていない。すべての人に虫好きになって欲しいとは思っていない。しかし、キアゲハの翅は鮮やかで美しい。鈴虫の鳴き声は澄み切ってきれいだ。ホタルが光を点滅しながら飛び交う姿は夢幻の世界のようだなど、子ども達には自然の姿を冷静に見ることができる感性を持った大人に成長して欲しいと思っている。

♪ジリジリと真夏の蝉も汗流す♪

(赤タイ)

ページトップ

恐竜とヒト

虫めがね vol.41 No.2 (2015)

恐竜は子ども達に大変人気がある。各地の恐竜博物館では、いつも興味深く見ている子ども達に出会う。恐竜は決して可愛い顔をしてはいない。むしろ獰猛な顔かたちをしている。子ども達のDNAには恐竜が恐いという感覚はインプットされていないのだろうか。恐竜が地球上に大繁栄したのは今から約二億一千万年前である。ちょうどその頃、我々ヒトの祖先である原始哺乳動物が誕生した。それは、子ネズミのような大きさで、昼間は穴の中に潜み、夜になると穴から出て昆虫や植物の種などを食べた。恐竜は主として草食動物であるので、この原始哺乳動物が恐竜に食べられることは無い。恐竜が活動している昼間は穴に潜んでいたので、恐竜から危険な目に合わされることは少なかったのだろう。従って、ヒトのDNAに恐竜が恐いという感覚はインプットされていないのだろう。

その大繁栄していた恐竜は、約六千五百万年前に、メキシコのユカタン半島に落下した巨大隕石によって絶滅したとされる。この時の巨大隕石は推定直径十㎞もあった。十㎞と言えば、東京駅から京浜東北線に乗って、大井町駅あたりが約十㎞になる。これほどの巨大隕石が地球に激突した結果、粉塵と煙が舞い上がり、大空を覆ったので、太陽光が遮られ、気温が寒冷化した。こうした「衝突の冬」は約五十年間続いたという。それで、恐竜たちの主食である裸子植物は育たなくなり食糧不足で死んでいった。体重が数トンもあるような巨大な恐竜もおり、この巨大な体を維持するだけの十分な食糧を得るのは難しかったわけだ。

我々の祖先である子ネズミ様の生き物は通常は穴の中で生活していたので、「衝突の冬」の間も寒さをしげた。また、体が小さかったので、小さな昆虫や植物の種などを食べて生き延びることが出来たのである。

ところで、約十三年前に、米航空宇宙局(NASA)のジェット推進研究所(JPL)は、直径一・一㎞ の小惑星が二八八〇年三月一六日に三百分の一の確率で地球に衝突する危険性があると発表した。二八八〇年であるから、筆者はこの世に居ないが、もしこの衝突が現実のものとなったら、人類はどのように対処するのであろうか。今、地球上では「イスラム国」とか言う過激派集団が現れてヒトの殺し合いをやっているが、人類は地球上で二次元世界だけを見て、自分の支配地域が増えた、減ったと争っていて良いのだろうか。三次元の世界があることを認識すべきではないだろうか。

(赤タイ)

ページトップ

生物たちの結納金

虫めがね vol.41 No.1 (2015)

若い男女が結婚に至るまでの一つのプロセスとして、日本の習慣では結納と言うのがある。これはもとは皇室の宮中儀礼として始まったらしい。それが室町時代に公家や武家社会に広がり、江戸時代末期から一般庶民の間にも広まったと言われている。古くは新郎家から新婦家へ、当時、貴重品であった帯や着物類を贈ったらしいが、最近の若いカップルはお互いに相談して結婚指輪を交換したり、両家で顔合わせの食事会をやって、結納に代えるなど、古い形式にとらわれないやり方が増えているようだ。

結納の習慣は日本だけでなく、外国でもあるようだ。イスラム社会にマフル(mahr)と言うのがある。マフルは現金や宝飾品や不動産など、かなり高額なものを新郎側が新婦側に送る。これが高額なため、結婚志願の若者は一生懸命に働いてお金を貯めねばならない。それで、経済的に豊かでない若い男性は、いつまでたっても結婚できないと言うことが起こる。逆に、資産家の男性は複数の女性と結婚(一夫多妻)することも起こる。

結納というのは人間だけでなく、ある種の昆虫にもある。北米東部の森林地帯に生息するツマグロガガンボモドキやハルノオドリバエのオスは、メスに求愛する前に、ユスリカ、ガガンボなどの小昆虫(求愛餌)を捕まえてメスに近づく。メスに近づくとその餌を差し出す。メスはオスが持参した餌が小さいと相手にしない。大きいとそれを受け取って、食べることに夢中になる。メスが食べている間に、交尾が行われ、オスとメスの結婚が成立することになる。求愛餌の大小、良否がメスを獲得する成否に直結する。

野鳥の仲間でモズやカワセミ、コアジサシなどは、オスが餌(求愛餌)を口にくわえてメスに近づき、差し出す。メスはその餌が気に入れば口移しにもらって食べる。こうして、親密な関係になった後に、交尾が行われる。カワセミの観察では、たった一回の餌の提供では親密になれず、数回餌を運びつづけて、ようやくメスに気に入ってもらうこともあるようだ。

メスには子を産み育てるという生物にとっては最重要の任務がある。出産には多大なエネルギー(栄養分)を必要とする。其の為の準備として、オスから餌をもらい、体内に蓄えることは健全な子孫を残すために必要な作業であろう。オスはメスのこの任務を達成する為に、骨身を惜しまずに協力しないといけない。

(赤タイ)

ページトップ

デング熱と鎖国政策

虫めがね vol.40 No.6 (2014)

今年の夏に、日本ではすでに無くなったと考えられていた熱帯性のデング熱の患者が見つかって、新聞やテレビで大きく報道された。患者はいずれも海外渡航歴はなかった。更に、数名の患者が見つかり、調査の結果、これらの患者は共通して、東京渋谷区の代々木公園内でヤブ蚊(ヒトスジシマカ)に刺されていることや、代々木公園内で捕獲されたヒトスジシマカからデング熱のウイルスが検出されたことなどで、代々木公園で感染したことが明らかになった。その後、東京都に隣接する千葉県の公園や兵庫県西宮市などでも感染例が見つかるなど、全国的な広がりを見せている。

現在のようにグローバル化した社会では、地球の反対側にあるアフリカや、南米からでも、二四時間以内に日本に来訪できる。大勢の外国人が日本にやって来ているし、また、大勢の日本人が外国に出かけており、そこで何らかの感染症にかかり、発症前に日本に帰国し、帰国後に発症する可能性も大きい。つまり、人の交流のグローバル化は、感染症もグローバル化すると言うことである。

今から約三五〇年前(一六六四~一六六五)に、ロンドンでネズミノミが媒介するペストが大流行した。最盛期には毎週六千~七千人のロンドン市民が亡くなった。この「ロンドンの大疫病」は、当時のロンドンの人口約四十六万人の二十%あまりが消滅するほどの大流行であった。この疫病は、その後、ドーバー海峡を渡り、大陸に波及し、ドイツ、オランダ、ベルギー、オーストリア、ハンガリーなどへ飛び火し、そこでも大勢の人々が亡くなった。

当時の日本は徳川幕府の施政下にあり、厳しい鎖国政策をとっていた。日本に来航できる外国船は中国船かオランダ船に限られていた。寄港できる港も長崎の平戸港に限られ、来訪した外国人の居住地も長崎の出島に制限した。これらの厳しい鎖国政策は、当然、海外からの感染症の流入を大きく阻むことになる。徳川幕府は自分の政権を長期に安定的に守る為に鎖国政策をとったわけだが、この政策は外来性感染症から日本国民を守る効果があったことになる。

日本国内にペストが初めて上陸したのは、徳川幕府が崩壊し、鎖国から開国政策に切り替わった明治時代に入ってからである。

(赤タイ)

ページトップ

前の5件 6  7  8  9  10  11  12  13  14  15  16