西安の旅
虫めがね vol.45 No.1 (2019)
去年(平成三〇年)の秋に中国の西安(旧長安)を旅した。高校生の時に世界史を履修し、東アジアの歴史で、度々、長安の名が出てきた。それで、一度は行ってみたいと思っていたのが、やっと念願がかなったわけだ。
中国の今の首都は北京であるが、長安は漢・唐時代と長い間、中国の都であった。長安は日本の古都・京都が、その都市造りのお手本にしたと言われるだけあって、東西南北、きれいに碁盤の目のように、道路が走っている。七~八世紀の最盛期の長安は人口百万人とも言われ世界最大の国際都市であった。文化的にも最先端を行っていた。日本はその最先端の文化を吸収する為に遣唐使をたびたび派遣した。万葉集の歌人・山上憶良、天台宗開祖・最澄、真言宗開祖・空海なども留学生として遣唐使に同行し、命がけで東シナ海を船で渡った。
西安旅行で最も印象に残ったのはやはり兵馬俑である。兵馬俑は誰にもその存在は知られずに二二〇〇年もの長い間地下に眠っていた。ところが、一九七四年、揚継徳氏(存命中)ら三名の農民が農地に水を引くために井戸を掘っている作業中に偶然地下から発見した。秦の始皇帝の頃(紀元前二三〇年頃)は、死者は再び来世で活動するという、死後の世界が信じられていた。それで始皇帝は来世の為に、自分の墓地の近くに陶器で作った俑の軍団を配置した。今、公開されているのは約八千体であるが、これはまだ一部だけで、どのくらい地下に埋まっているのか、その全体像は分かっていない。専門家が少しずつ発掘しては、壊れた部分を修復しているので、全体像が日の目を見るには、あと百年くらいかかるのではないかと言う気がした。
日本でも数年前に「兵馬俑展」があり、見に行ったが、現地で見るとその規模の大きさに圧倒される。今見ている兵馬俑は土色をしているが、製作された当時はそのすべてに顔料で彩色されていたことが判っている。色鮮やかな紺の軍服に赤い鎧と脚絆を付けた、何万体という陶俑の軍隊が整然と整列している光景は、目を見張るものであったろう。
日本に数回来たことがあるという我々のガイド嬢の言葉が印象に残る。彼女は我々に質問した。
「中国の道路は歩行者優先と思いますか、車優先と思いますか?」
日本から来た我々は当然、
「車優先です」と答える。するとそのガイド嬢の答えは、
「違います。"勇気"優先です」
中国の横断歩道は勇気を出して渡らないと、車が次々とやって来て、何時まで待っても横断できないと言うことらしい。
♪古里の川に蛍の光なし
(赤タイ)